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WORKS



ベア・ナックル=熊の拳、熊の爪、熊の腕。
裸の拳で戦っていたボクシング創成期、本当の強さを求めたファイトを、人々は、こう呼んでいた。今、それは、ボクシングであってボクシングではない、裏の世界ので行われるエンターテインメイントなのだ。

ベア・ナックル

講談社
ISBN4-06-212111-5

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

紀伊國屋書店

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今だ!福永は無意識に動いた。
パンパンパパパーン!左から右をまっすぐ叩きつけ、左を薙いでフックを返し打ち、まっすぐ右から左を薙いでフックとどめをさす得意の五連打。
福永は全身全霊を傾けて戦った。疲れは極限に達しようとしている。攻撃に威力はない。動きにしまりもない。それでも懸命に手を出した。当たってようがいまいが、格好が悪かろうがお構いなしに、必死に手をだした。
勝つために、勝利の手を挙げるために、左右の拳を繰り出した。自分の存在がボクシングそのものなっていた。

ラスト・マッチ 

講談社
ISBN4-06-212731-8

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

紀伊國屋書店

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掲 載 関 連
BOXING WORLD】2007年1月増刊号 掲載(P60)
【後楽園ホール】
〜 特別な場所 〜
 後楽園はぼくにとって思い出深い地だ。思い起こせば昭和五十年。小学二年生だったぼくは、夜働きに出ている母親の――女手一つで三人の子供を育てながらのシャンソンバー経営。頭が下がります――目を盗んでは後楽園球場に――東京ドームじゃなくて! ――通っていた。目的は巨人戦。大のジャイアンツファンだったぼくは、似たような境遇の友だちとつるんでナイター戦を満喫していたのだ。巨人が勝つと有頂天になり、後楽園遊園地に忍び込んで夜遊びにふけったりもした。しかし、当時のぼくに青いビル内にあった後楽園ホールなど知る由もなかった。
 子供の夜遊びは長くは続かなかった。ある夜、王選手のホームランでぼくは気分も上々に帰路に着いた。勝利の余韻に浸ってドアを開けたぼくは、眼を見開いて立ち尽くした。いるはずのない母親が待ち構えているではないか! 大目玉を喰らったのはいうまでもない。兄弟のチクリによって、ぼくの後楽園行は泡と消えてしまった。しかし、ぼくは再び後楽園へ出向くようになる。高校一年生のぼくは、後楽園球場横にある青いビルへ独り入っていった。周りはトレーナーや会長と連れ立ってきたものばかり。ぼくは心細さを負けん気で誤魔化して、プロボクサーC級ライセンスのテストを受けた。筆記試験を受け、実技でのスパーリングの用意が終わったころ、ようやく「悪ぃ、悪ぃ」と当時トレーナーだった西城正三氏がつき添いで現れた。安堵も束の間、ぼくは誰一人観客のいないリングの上に立った。
 ここが後楽園ホールのリングか。感想は感慨とは程遠いあっさりしたものだった。スパーリングはあっという間に終わり、ぼくは十六歳にしてプロボクサーとなった。それからボクシングの殿堂といわれる後楽園ホールとぼくとのつき合いが始まる。
 無数の戦いと幾多のドラマを生んできたリング。青いキャンバスにはそばかすのように大少様々な黒点が散らばっている。戦いによって流された鮮血が乾き、染みついたものだ。四本のロープで囲まれた四角い空間は観客席とは別個の空気の中にある。勝ちと負けの絶対的な隔たりが平常心を奪い、倒すか倒されるかの真剣勝負が自分という存在を呑み込む。そしてリングは戦うものに様々な表情を見せる。時には優しかったり、苦しかったり、厳しかったり、辛かったり、傷かったり、楽しかったり。
 十七の誕生日がきてすぐのデビュー戦。ぼくは修学旅行をうっちゃって両手に六オンスグラブをはめた。あんこが偏って素手に近い状態の古く小さなグラブ。先に当てた方が勝ちだ! ぼくは気負い、勇み立ってリングへの梯子段を登った。そして対戦相手を前にしたとき。そこに普段のぼくはいなかった。眼を吊り上げ、興奮し、脳裏にある思いは相手をぶっ倒す! だけ。ゴングが鳴り響き、ぼくはコーナーを跳び出た。格好もへったくれもなく相手に襲いかかっていった。ボクシング以前の街の喧嘩もいいところだ。そして六十秒とかからず相手を料理し――ぼくはうぬぼれた。朝は走らず、トレーニングもよくサボる、センスだけの男の先は知れていた。その後、心に傷い敗戦を味わわされ、ぼくは成長していったと思う。八回戦でメインイベントだった伯耆淳戦。ダウンを喫した厳しい試合だったが、ぼくは挽回し、勝利を_んだ。その試合、なんと八回戦にして月間MVPを受賞してしまった。期待されていたんだなと思わされたが、ぼくは運に見放されてタイトルとは無縁だった。
 わくわくと楽しかったときもあった。ジムを移籍した初戦。相手は元世界一位のペニャロサ。グラブを交えたとき、彼の歯応えに強い! と感じた。同時に戦いを楽しめた。この男をどうぶっとばすか、とわくわくした。結果は4RKO勝ち。
 眩いばかりの身を焦がすスポットライト。勝負のかかった四角い空間の向こうにある観客の目。野次。罵声。嬌声。声援。平常心とスタミナを奪うリングの中でKO勝利をものにしたとき――。それは誇らしく、自尊心が満たされる瞬間でもあった。
 いまは作家、そしてトレーナーとして、ぼくはこれからも後楽園ホールと仲良くしていきたい。



【WORLD BOXING】2006年9月号 掲載(P10)
スコルピオンの眼
【亀田よ、大事なのはこれからだ】
 子供に返ったかのように胸がわくわくした 最近は試合場へ行くとなればもっはら後楽園ホールだったぼくにとって、横浜アリーナは新鮮で刺激的で少なからず興奮を覚えた。
 8月2日。亀田興毅の世界初挑戦。ぼくが足を運んだのは前座試合の最中だった。だたっ広し、会場は人、人、人で埋め尽くされ、誰もがボクシング界の寵児の登場を待ちかねていた。時間の都合なのか、A級ボクサーが6回戦だった前座。セミファイナルになっても会場内に熱はなかった。早く亀田を出してくれ!アリーナにそんな空気が票っていたのは否定できない。世界戦のセミファイナルを経験したことのあるぼくにとって、薄ら寒い現実だった。戦っている本人は懸命なのに! それはさておき、いまさらに驚いたのはアリーナに訪れた女性ファンの多さだ。女子高生に見える娘から顔を黒く塗りたくったヤマンバまで。いたるところで目につく女性ファンにぼくは圧倒された。次男の大毅が月間新鋭賞の受賞て登場すると、アリーナは黄色い声に包まれた。そしてアメリカの名物リングアナウンサーの声で亀田興毅が姿を現すと、アリーナは熟く煮えた
ぎるように沸き返った
 リンク上に立った彼の表情は硬かった。世界の舞台へ立つ重圧からか、それともなにがなんでもタイトルを獲るという気負いからか。一方、すでに世界戦を経験しているランダエタは暫定王者だったことからくる自信なのか、いい意味でプレッシャーを感じているようだった。落ち着いた表情でゴンクを待っていた。
 初回。動きまで固かった亀田。右フックを合わせ打たれ、初のダウンを喫した。怖さ、があったと思う。その後の彼は中間距離での拳の交錯を避けた。固くガードを構え、工夫もなく相手にくっつくボクシングに終始した。格の違いか。ランダエタは彼の動きを見切り、巧みな防御と的確な攻撃で試合を支配した。そして、勝敗は判定に委ねられた。
 ふと、思い浮かんだのが先月に全世界を熱狂させたサッカー。世界各国がしのぎを削り合い、最高峰の地位を賭けて伊と仏が決勝戦に臨んだ。より抜かれた高い技術と鍛え抜いた精神をぶつけ合い、試合は延長戦でも決着がつかずにPK戦へ。息を呑む緊迫とした場で勝利を手にしたのは伊。誰もが認めた結末。ほくは勝敗を超え、両国に喝采を送った。スポーツの醍醐味を堪能した。アリーナでは日本の寵児が新チャンヒオンとなった。しかし、ぼくは素直に喜べなかった。ただ、会場に残った多くのファンは彼の名を連呼し、喜び−感涙する女性ファンまでいた−に浸り、亀田一色となっていた。ヒーローの必要性を感じた瞬間でもあった。世界の頂点に達した亀田興毅。疑惑を残した。大事なのはこれからだ。世界を認めさせる高い技術と強い精神をもって試合に臨み、世界を納得させる勝敗を示してほしい。スポーツとしてのボクシングのすばらしさを表現できなけれは、あまりにも寂しいではないか。



東京新聞 2006年6月12日夕刊 掲載(P9)
【亀田兄弟よ!】
亀田興毅のプロボクシング世界戦が決まった。なにかと騒がれる彼ら三兄弟の長男が、ついに世界のひのき舞台に立つ。大いに期待しているファンも多いことと思う。いまぼくは、周りがみな敵に見えていたような現役時代と違い、おおらかな気持ちで彼に声援を送っている。
 関西弁で相手を挑発する試合前の派手なパフォーマンスの長男。KO勝ちを飾ったあとにリングの中で歌声を響かせ(薄っペらな感じで、見ている方が恥ずかしい気もするが)、女性ファンのハートをとらえているのは二男・大毅。
 そして父の元でのユニークなトレーニングに取り組む彼らの姿が茶の間を沸かせている。彼らは父親と絶対の信頼関除を築いて連勝街道をひた走っている。その父はボクシングに関してはどちらかといえば素人と聞いた。そこで思い浮かぶのが故白井義男氏だ。
 日本人初の世界チャンピオンとなった白井氏は、自身がくすぶっていた戦後にGHQ(連合国軍総司令部)職員だったアルビン・カーン博士と出会った。そのカーン博士にもボクシングの経験がなかった。しかし、絶対の信頼関係を築き、当時の日本にはなかった科学的なボクシングを追究させて世界のベルトを奪い取った。
 ボクシングに携わったことのないものが持つ感性が、常識を覆して強いファイターを育て上げるのだろうか。それとも、信じるものの強みなのか。へそ曲がりのぼくは、そんな亀田親
子が世界を奪取すれば素直に喝采を送ってしまうだろう。
 その世界戦だが、一階級落としたライト・フライ級で臨むという。ぼくも一度一階級落としてタイトルに挑戦(ぽくの場合は日本タイトルだったが)したことがあつた。協栄ジムから十番TYジムに移籍して、アメリカ修行の成果を見せて乗っている時だった。当時のぼくはスーパー・フライ級だったが、ベスト体重は52・1キロよりも若干軽く、50・8キロなら問題なかろうとフライ級の日本タイトル戦に臨んだ。
 絶対の自信を持ってリング上に立ったが、気持ちだけが空回りしたかのように、ぼくは判定で敗れた。移籍後、ぼくは負ければあとがないと捨て身の覚悟で試合に臨んでいた。結果は無様な判定負け。翌日、当時体を悪くされて入院していた会長に挨拶に行った。「もう辞めろ」。その言葉を覚悟して会長を見舞った。しかし、会長の口から出たのは意外な言葉だった。
 「トモキ、フライじゃ軽すぎる。スーパー・フライでやれ」。そしてぼくはその試合のビデオを見た。愕然とした。ショックだった。そこには力なくふらついて戦っているぼくがいて、それは決してぼくの実力じゃなかった。そう、ぼくは体重を落としすぎていたのだ。
 中学のころからボクシングをやっていたぼくは経験も長く、どうすればどれだけ落ちるのか体重調整法知っていたし、それを巧くこなせた。だが、体重を落とせることと、実力を発揮できるかは別問題だ。
 世間でよく思われがちなのが少しでも軽いクラスでやった方が有利なのでは、というものだが、そこには落とし穴がある。真の実力を発揮できるのは「ベストの体重」で戦ったときであって、無理な減量で体重を落として戦っても額面通りの力は出せないのだ。
 その後、ぼくは日本スーパー・フライ級のタイトル戦を大阪で迎えた。大差の判定勝ち…のはずだったが、結果はよくある″地元判定″で、興行を打ったジム所属の明らかに負けている選手が両手を挙げた。懸命に戦ったことを無にする眉唾の判定をぼくが嫌悪するようになったのはいうまでもない。
 さて、一階級落として世界戦に臨む亀田興毅。今までフライ級で戦ってきた彼が一つクラスを落とすということに一抹の不安はあるが、万全の態勢で細心の注意を払って体重調整に取り組んでもらいたい。若さで乗り切れる、かもしれないし、それが過信になるかもしれない。体力を落とさずに実力が発揮できるよう、己を磨いてほしい。
 ノリにノっている亀田興毅の勝利を、ぼくは一ファンとして楽しみにしている。がんばれ、亀田!きみの活躍がボクシング界を引っ張っていくぞ!



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